◆長恨歌

コスモス

早くも10月を迎えた。きょうも朝から肌寒い。秋本番なんだから、涼しくて当たり「前田のクラッカー」、寒いと感じるなんてまさに異常と言える。それっていうのも、7月から9月中旬まで猛暑、真夏日、熱帯夜と、連日に渡って続き、人間の脳と身体の細胞に暑さというものを、やになる程植え付けられたからこそ、本当は涼しいのに寒いと表現してしまうのだ。

「光陰矢の如し」「年月は百代の過客なり」「よしやうらぶれて、異土のかたいとなりとても」、古代より人生の終焉を吟じた名文句は数多くあるけれど、煎じ詰めれば、しょせん人間は死ぬために生まれてきたともいえる。寿命は「運命」か「天命」か「宿命」によって支配されているのだけど、それがいつとは神とても言い表せない神秘的な領域だろう。

まあ、難しいことはさておいて、透析を始めてから、我が人生は忙しく風に回る走馬燈のようなものだ。あっと気がつけばもう土曜日なんである。日曜日なんてまるで関係ない。とにかく1週間を3日で生きている感じである。だから日の経つのが驚くほど早い。つい先日だったような気がしていたその名前さえ忘却してしまったが、あの血管をつなぐ手術は調べてみると、4月27日に行われていた。

なんと74歳の誕生日だった。あれから、もう5ヶ月も経っているんだなあ。手術を実行した先生が小柄ながら美人だったのを覚えている。つぶらな瞳で瞬きなしに話しかけられ、それに対して、コチトラも毅然と相手の目をジッと見詰め応対した。彼女と会ったのはわずか3回ほどだったが、とてもいい感触だった。いまから考えれば、冷や汗ものだったが、よくあんなことができたなあ。

「禍福あざなえる如し」ということばがあるけど、人間の持つ真実と虚構をうまく表現する言葉だなあ。透析をやると決まったとき、なんで、こんな災厄が我が身に振り返ってきたのかって感歎したが、やると決まった以上、順応するのが一番だと思った。事実、そう思うと、いまやってることが全て素晴らしく、毎日を楽しむことが出来るって仕組みになる。心は持ちよう、なにごとも自分に良く考えるプラス志向が肝要なんだなあ。