◆桃太郎

水たまり

じいさんは山へ柴刈りに、ばあさんは川へ洗濯に、というくだりが桃太郎の中に出てくる。これは昔の話、21世紀の我が家では、じいさんは、冬の日溜まりを探しては転た寝、っていうより爆睡している。ばあさんはガサゴソと物音を立てながら探し物をしている。買物に行くのに買物リストをメモし、それを忘れて出掛けちゃうなんて、日常茶飯事。だけど、ぼけているのかと思えばそうじゃない、電話の応対なんて、聞くとはなしに聞いていると、しっかりとしている。物忘れの度合いがひどくなっただけかってほっとする。

ジイサンの方はボケは大丈夫のようだが、なにせ怠け者、心身ともに丈夫であるにもかかわらず、何かと屁理屈こいてはさぼりたがる。朝から眠いのは毎晩午前3時まで起きているせいもあるんだが、転た寝が習慣になってしまい、ばあさんが口うるさくないのをいいことに、やりたい放題だ。足が痛いのをいいことに殆ど外へ出ないで寝てばかりいる。これが、どういう訳か、ちっとも飽きないのだ。寝れば寝るほど、眠気が増してくるんだっちゅうから、バカに付ける薬はなさそうだ。そのかわりといってはなんだが、午前12時を過ぎると、俄然眼光が鋭くなり、勇気凛々となる。

バササンもボケのほうは大丈夫のようだが、時々思考がどっかにトリップしてしまい、その間起こったことを全く忘れてしまう。物忘れとは違うようだが、なにせ、自宅で20年近く、翻訳の仕事に携っていたから、その仕事を辞めちゃった途端、どう閑にどう対処すべきかいう戸惑いの真っ直中にいる。閑に向き合うには、それなりの対処法がある。閑に刃向かうのではなく、閑に身をまかせるのである。この呼吸は素人衆には難しいだろうが、達人にとってはわけもないことである。

「時の過ぎゆくままに 身をまかせ」沢田研二が熱唱した「時の過ぎゆくままに」の歌詞(これは亡くなった阿久悠の作詞だったが)のように自然体で時の流れに身をまかせるという境地に没入しなけりゃならない。世俗を捨てた世捨て人のような感覚が必要なんである。なんちゃってね。きょうもまたしても絶好の転た寝日、もたもたしていると、太陽が遠ざかってしまいそう、それではこの辺で、おあとがよろしいようで。