◆消毒薬

銀座八丁目

土曜日の午後、歩行者天国になった銀座八丁を撮影しながら、銀座八丁目の「天国」を過ぎた当りで、淵石につまづいて、片膝をついた。転んだという感覚はなかったが、膝の辺りに生暖かいものが流れ出した。幸い 始発のバス停が近かったので、やってきたバスに乗り、奥の席でズボンを上げてみたら、ステテコは既に真っ赤に染まり、膝の辺りから血が噴き出していた。手持ちのテイッシュで強く抑えていると、バスが走り出す頃には血も止まっていた。久し振りの同窓会でビールを飲み過ぎたのが、大量の出血とは無縁ではない。

さて、再三にわたり、奇跡の消毒薬、赤チンに対する郷愁を述べてきたが、10月24日付朝日新聞be「サザエさんをさがして」に興味ある記事が載っていた。本文は下記に掲載するが、この記事を読んでいて、そうか、すっかりオキシフルのことを忘れていたって気がついた。あの無色無臭の強烈なヤツ、赤チンの強烈な赤さの陰に隠れて、記憶の断片から消え去っていたのだ。そうそう、あの強烈な痛さといったら、忘れられない記憶だったが、都合の悪い事ってけっこう記憶に残っていないのも事実である。

1954年8月18日記載のサザエさんの場面で応急処置の消毒薬として使われているのは、過酸化水素の水溶液「オキシドール」だ。画面のワカメの真の恐怖心は、いまの子には分からないかもしれない。無色無臭のオキシドールを塗ると、酸素が分解して傷口がブクブク泡立つ。その酸化作用に殺菌力があるのだが、元々の傷の痛みを数倍増幅するぐらい、しみた。それでのたうち回った幼児体験があると、無意識にオキシドールを目のカタキにする習性が身についてしまうようだ。

今時の消毒薬は当たり前のように無色でしみない。この消毒薬の無色「激痛」時代と現在の無色「無痛」時代をつなぐのが「赤色無痛」時代。つまりいまや見る影もないマーキュロクローム液、通称赤チンの黄金時代だった。原料のマーキュロクロームを精製水で溶かした2%溶液を25ミリリットル入りガラス瓶に詰めて売り出したのが、世田谷にある零細企業「三栄製薬」だった。全国の大手メーカーも参入し、家庭用救急箱に赤チンが常備された60年代後半に、月産最高4万本を記録した。

だが、70年代初めに水銀を発生する原料製造から国内メーカーが手を引き、赤チンは一気に淘汰されてしまった。だが、三栄製薬だけは、いまでも僅か月産2000本ばかりだが、原料を海外から輸入し手間暇掛けて製造している。当然利益はない。社長はこう語る「最初の製品は我が子も同然でね、愛着も深いのです」。しかし、中高年世代の万能薬信仰は、いまなお廃れきっていないらしい。「かって、赤チンは魔法の秘薬でした」という郷愁まじりであったり、手に入りにくい赤チンを冷蔵庫に保存し、後生大事に使っているなど、愛用者からの便りも時折、届くのだという。