◆お天道様

秋の空

台風一過、爽やかな秋の空が広がっている。穏やかな陽光に包まれながら、やはり秋の空気は瑞々しいと実感した。さて、年寄りじみて恐縮だが、近頃では、子供の頃家庭でよく使っていた、言葉のやりとりが懐かしく思い出されるのだ。いまでもよく使っている「お天道様」という言葉、むろん太陽を指した言葉であるが、「お天道様に申し訳ない」というフレーズは、子供がご飯を食べ残したり、捨てたりすると、親が子供を叱ったり、諭したりする意味で使われていた。お米や農作物の大事さを子供に教える智恵でもあった。

「仇やおろそかに」というのも物を粗末に扱ったり、いい加減にしたりした時にいわれた言葉、「ばちが当たる」、罰とは神仏による懲らしめのことだが、具体的説明はなかったね。「嘘つきは泥棒の始まり」、これは親がよく使う常套手段だった。「人聞きが悪い」「みっともない」もイタズラが見つかったときによく言われた。悪いことをすると、「押し入れに入れるからね」、これは経験があるけれど恐かったね。真っ暗な中に閉じ込められた恐怖感、未だに閉所恐怖症なのは、その時のトラウマかもしれない。

「チチンプイプイ」、子供が擦り傷を作ったり、手足をぶつけたりして痛がっていると、傷をさすりながら、赤チンを塗って、チチンプイプイとおまじないを掛け、「痛いの痛いの飛んで行け」っと続けたのだった。そのセリフを聞くと、本当に痛さが薄まるような効能があった。「おつむテンテン」は痛みとか薬に関係なく、幼児が自分の頭を軽く叩く仕草に周りが囃すことに使われた。テンテンとは頭をテンテン太鼓になぞらえたのだろうか。

お客がやってきたときの一連の挨拶、雨が降っていれば「いいお湿りで」、正座して座っていると「お平に」、お茶を持ってきながら「空茶ですが」、食事を運ぶときは「不調法ですが」「粗末なものですが」、客が持参したお土産を出すときには「お持たせですが」、いずれも客に対して一歩下がった謙遜の言葉だった。決して相手にへつらうのではなく、自然に口をついて出る謙譲語だった。いまでは、このような良き習慣っていうものが消えてしまったね。

そういえば、「行ってきます」「行ってらっしゃい、気を付けてね」、「ただいま」「お帰りなさい」、「ご馳走様」「お粗相様」、「お休みなさい」、なんてごく当たり前の日常挨拶、いまの若い親子の間でも交わされているんだろうか。こういう日常の何気ない会話、いまこそ、必要なときだろうと思うね。