◆神無月10月

パンパスグラス

朝から篠突くような雨が降っている。いつものことだが、今年もあっという間に10月を迎えてしまった。年を取ってくると、毎日をボサッと過ごしていることが多いくせに、気がつくとやけに日が経つのを速く感じる。こんな感じであっという間に年を重ねてしまう。そういう思いが強いせいか、この時期になると必ず思い出される4つの詩曲がある。人生のたそがれ、人の命のはかなさ、晩秋のわびしさ、過ぎ去った日へのおもい、そのどれもがじわじわと心にしみこんでくる。

<年々歳々花相似たり 年々歳々人同じからず>(唐の詩人劉廷芝の「代悲白頭翁」)。人の世のはかなさを詠じものだが、日夜実感として感じていることであるだけに切実な思いだ。西本願寺御影堂の復興工事をテレビで見たが、芯柱に使われていたのが樹齢500年を超すヒノキの大木であることを知り、人知の素晴らしさを感じる以上に、自然のの持つ素晴らしい生命力に圧倒された。人間なんて小っちゃいものだと思い知らされたね。

<月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。>(松尾芭蕉奥の細道序文)。「百代(はくたい)」は、「何代にもわたる」意から永遠、「過客」は、通り過ぎてゆく人、旅人の意味だが、年々歳々と同じように、人生のはかなさを悟ろうとして悟れない凡人のあせりがある。その凡人が芭蕉であることに大きな意義がある。

<ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土のかたいとなるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれにふるさとおもひ涙ぐむ>(室生犀星「小景異情」から)。故郷のない人間にとって、異境にあって故郷を思う人の心のウズキは理解しがたいものもあるが、この詩の持つ格調の高さと選別された言葉の羅列には、ただただ魅せられる。

<秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し 鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ>(ポール・ヴェルレーヌ「落葉」上田敏訳から)。近づいてくる冬を予感して、秋への惜別を歌い上げた名作だが、「ヴィオロンの溜息」と、ひたぶるにうら悲し」というフレーズが圧倒的にいい。原語の響きは分からないが上田敏の名訳には魂の叫びがこもっているようだ。

10月を神無月というのは、一般には、出雲の出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなる月の意味と言われており、出雲では神在月という。10月の節は晩秋であるが、立冬が11月7,8日ごろであるため、晩秋の季はこの日にまで及んでいる。初冬の節で、空の青さも秋のそれとは異なり、明朗さよりも冷たく冴えかえったものとなって、冬の到来をしみじみと感じるようになるが、陽暦ではまだ秋の深まり行く季節である。寒い地方からは初霜や初雪の便りが届き、秋の夜長を思うころで、俳句では10月を秋の季語、神無月を冬の季語としている。