◆四方山話

ジュリ

沖縄島、佐渡島奄美大島対馬についで日本で5番目に大きい島「淡路島」は江戸時代には徳島藩の領地だった。徳島藩蜂須賀至鎮(よししげ)は大阪の陣の戦功により、淡路六万石を下封され、以来明治維新までの250年あまり統治してきた。明治4年の廃藩置県で淡路島が徳島県となったのは当然のことだった。ところが、明治9年に淡路島は切り離されて兵庫県となった。徳島県の管轄範囲が広すぎるというのが表向きの理由だが、実は別に大きな真相があったのだ。

徳島藩主は歴代にわたり、筆頭家老稲田氏を洲本城代として、淡路島の統治に当たらせていた。ところが版籍奉還で、蜂巣賀家の家臣が氏族になったのに、稲田家の家臣は蜂須賀氏の家臣の家来の扱いで、家臣より一ランク低い卒族にされてしまった。その結果淡路を洲本藩として独立させる運動が始まり、蜂須賀藩による刃傷沙汰が勃発、政府は稲田家を襲撃した首謀者10名を斬罪、26名を八丈島へ終身流刑にするなど厳罰に処した。

また、稲田家に対しては分藩運動を起こした罪として、家臣全員を北海道への移住開拓を命じ、徳島藩にはその費用を負担することを命じた。だが、徳島藩は財政難からこれを固辞、やぬなく政府は稲田家旧領の全高を兵庫県に管轄させ、移住開拓費も財政力のある兵庫県に負担させた。

廃藩置県の際、明治政府は県名を決めるのに、ある原則を適用していた。それは戊辰戦争などで明治政府に貢献した藩については、城下町名を県名とし、逆に政府に抵抗したり消極的な態度を取った藩には、城下町のない群名や山名、川名などを県名にするという、嫌らしい方針をとったのである。廃藩置県で成立した香川県は、かって二度も消滅した挙げ句、地元有志による誓願で、ようやく明治21年12月、香川県が復活したのである。

川一つ隔てただけなのに、大きく性格が異なった双子都市福岡と博多。住民の気質や習慣、それに方言まで違う。たとえば、標準語で「よくいらっしゃいました。どうしておられますか」に当たる挨拶は、博多では「ようきなざった。どげんしょんなざるな」だが、福岡では「おいでない。どうしがっしゃるな」となる。

これは歴史的由来によるものだ。博多は古くから貿易の基地として、外交や貿易によって繁栄してきた商人や職人の町だった。いっぽう、福岡は黒田家が関ヶ原の戦功によって移封され開いた城下町で、武士を主体とした町だ。福岡藩の治世下では一応区切られてはいたが、厳密には往来自由で、博多は城下町福岡の一部に組み込まれていったのだ。

水戸藩は水戸県になれずに茨城県に包括され、桑名藩三重県会津藩福島県に、仙台藩宮城県庄内藩米沢藩山形県に、弘前藩青森県にそれぞれ包括されてしまった。そして、水戸、桑名、会津、鶴岡、米沢、弘前などの城下町は県庁所在地とはなれなかった。唯一、仙台藩だけは人脈と金脈を総動員し、仙台を県庁所在地とすることができたという。明治政府の挙兵参加に消極的だった紀州藩も、さんざ嫌がらせを受け、大金を使わされわされた挙げ句、なんとか和歌山県の確保ができた。