◆賽の目

親子の彫像・丸ノ内

若い頃、昼飯時ともなると、始まるのが「チンチロリン」だった。これで食っている奴もいたから半端じゃあない。さいころを二つ懐に忍ばせておけば、いつでも、どこでも暇つぶしに「チンチロリン」ができた。湯飲み茶碗とさいころがあれば、そく賭博場に早代わり、マージャンみたいに並べる手間もなく、時間もかからない。「長か半か」、賽の目次第で、一瞬で勝負が決まるのが爽快だった。

時間つぶしにやるのだから、1回50円なんてチンケな勝負だったが、1時間もすると、3000円も負けの込んだ奴が出てくるから、バカにはできない。昼飯は500円もあれば、お釣りがきた時代だったから、この負けはジワーっときいてくるんだなあ。昼飯も食わずに熱中、カモネギにされ、他人の食生活を必死で支えるという豪のものもいた。

花札の「オイッチョ」や、百人一首の「坊主めくり」もよくやったが、この「チンチロリン」の即決性と簡便性には勝てなかった。4-5人集まって親にでもなり、総取りを繰り返せば、あっという間に1000円札が何枚か懐に転がり込んでくるんだから、たまらないものがあったよなあ。ついてない奴ほど、カッカして整合性を無視するから、だいたいカモは決まっていて、ずいぶん昼飯をタダで食べさしてもらったもんだった。イジメにあっている奴がいるなんて、社内で噂になり、やめちゃったけどちょっと惜しい気がしたね。

ジュリアス・シーザールビコン川を渡る決意をしたとき、「賽は投げられた」といったのは有名な話だ。そうなると、古代ローマではさいころが一般的に使われていたってことになるんだが、さいころっていうと、どうも東洋の匂いがしてならないんだなあ。そんな紀元前からさいころは西洋にもあったのかって疑問も出てくるわけで、不思議な気もしてくる。

さいころっていえば、どうして1だけが赤く塗られているんだろうかっていう疑問もある。それについては色んな説があるようだけど、<賽の目の配置はただ向かいあわせの面の目の合計が7になっているだけではなく、ちゃんと向きも決まっている。立方体を平面上に置き、その各面の向いた方向を東西南北で表わすときに、「一天地六東五西二南三北四(いってんち、ろくとうごさい、になんざんほくし)」というのが、正しい賽の目の配置だそうだ。従って一の目は「天」、一の目は太陽を表わすので赤いのだ>という説が有力だ。