上野

上野寛永寺

上野寛永寺を創設した天海は徳川家康のブレーンとして江戸幕府の設立に活躍した政僧。家康の命により、比叡山の再興、川越・喜多院の造営に携わり、さらに家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興した。また、天海の提言により、家康の神号は「東照大権現」と決定された。その後も、2代将軍徳川秀忠・3代徳川家光に仕え、秀忠に日光東照宮の造営を奨め、江戸の鬼門である上野忍岡に寛永寺を創建し、広大な敷地に数多くの塔頭が立ち並んだ。108歳で没する。

その出自の曖昧さもあり、墓所である日光に「明智平」という場所があることなどから、天海が明智光秀と同一人物という説がある。また、家光の乳母として絶大の勢力を誇った春日の局は光秀の従兄弟で重臣だった斎藤利三の娘だったことも、その説を裏付けている。ちなみに、家光の墓所日光東照宮、春日の局の墓は喜多院にある。

幕末官軍に対して、彰義隊が上野寛永寺に立てこもって抵抗したため、これを排除するため、官軍はこの一帯を焼き払い、わずかな場所のみを寛永寺に残し、残りすべてを没収した。跡地には美学校音楽学校、美術館、博物館などを建設した。これが現在の上野公園であり、東京の文化の中心地となった。

北白川宮能久親王伏見宮邦家親王の第9王子(仁孝天皇の猶子)。青蓮院宮家を経て輪王寺宮家を相続、公現法親王を称し上野寛永寺の門跡となる。権謀術数の渦に巻き込まれ、戊辰戦争で官軍に対抗する奥州雄藩連合の総裁に擬せられ、賊軍の将として幽閉された。数年後還俗を許され伏見宮家に復帰、軍籍に就いた後、北白川宮家を相続、陸軍中将、近衞師団長として台湾出兵中、現地でマラリアを罹病し49歳で病死した。一説によると、討幕軍の司令官だった有栖川の宮の怒りを買い、その死後ようやく幽閉を解かれたという。

権力の中枢にいる有栖川宮に比べると、自分は出家させられ、日の当たらない場所で不遇をかこっている。その中で時代の波に翻弄され、夢を見たのはほんの僅か、賊軍の将として逃亡した末捕らえられ、虜囚の身となる。やっと名誉を回復し宮家を継いで将軍にまで上り詰めたものの、宮家としては初めて戦争の最前線に駆り出され、現地で病死する。

五重塔は動物園で切り離され、こじんまりとした上野寛永寺の小さな庭で、冬牡丹を見ながら、時代に翻弄された宮家を思い、しばし感懐にふけってしまったね。