◆紀尾井坂

サクラ散る

麹町から赤坂へ抜ける高低差の激しい坂を「紀尾井坂」というが、江戸時代、この辺りには紀州徳川家尾張徳川家彦根藩井伊家の中屋敷が櫛比していたことから、その頭文字をとって名付けられたという。大きな屋敷に囲まれた坂だっただけに、日中でも人通りが少なかったそうだ。明治の元勲、大久保利通が暗殺されたのも、この坂だった。

さて、かっての広大な大名屋敷だが、紀州藩上屋敷は赤坂御所と迎賓館、尾張藩上屋敷は市谷の防衛省、加賀百万石前田家の上屋敷は東大、水戸藩上屋敷は後楽園一帯、譜代大名青山家の中屋敷青山墓地譜代大名内藤家の中屋敷新宿御苑になっている。

1万石以上を大名というが、幕府に与えられた土地は表示された石数よりも、収穫できる石数ほうが少ない場合が多かった。同じ1万石でも米が獲れる地域と獲れない地域とでは雲泥の差があった。標準的にいえば、1万石の大名は藩士を100名雇用しなければならない。収穫高の半数以上は藩の財政及び藩主、家老など上士の取り分となるから、大半を占める下級武士の取り分は年間50石(100万円)前後の捨扶持に過ぎなかった。

藤沢周平の時代小説によく登場する東北の「海坂藩」は架空の藩だが、彼の出身地である庄内藩酒井家を舞台にしているとよく錯覚される。だが、庄内藩は全国屈指の米どころであるとともに、豪商本間家の強力なバックアップがあり、東北でも有数の裕福な藩だった。だから、舞台となっているのは、実は隣国米沢藩上杉家のようである。上杉家の貧窮振りは史上でも有名な話だったからだ。

上杉謙信を祖とする越後の名門上杉家は、秀吉の時代に会津100万石に擬せられ、徳川の時代になって、米沢40万石となった。それが綱吉の時代に嗣子の死去により、お家断絶の危機に見舞われ、なんとか家名を保ったものの、25万石に減封されてしまった。上杉家は情に厚い大名だったから、会津時代から家臣のリストラは一切しなかった。

他家に比べて、ろくな産物のない山間の僻地なのに、石高に見合わない大量の武士を抱えてしまったのである。藩政は過剰債務で火の車、ついには家臣の俸給でさえ、半分以上を借り上げと称して取り上げる始末。徹底的な質素倹約を旨とし、新田開発、殖産興業に着手したのは上杉鷹山の時代になってからだった。