真田十勇士

立川文庫

「忍者」と聞くと疾風のごとく駆け、印を結んでドロンと消える、こんなイメージが一般に広まるのは、実は明治時代以降の話らしい。立役者は真田幸村に仕える「真田十勇士」だった。

「虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す」、少年向けの読み物「猿飛佐助」は冒頭、幸村をたたえる文章で書き起こされている。明治から大正にかけて、大阪で約2百編が刊行された「立川文庫」の1冊である「真田もの」はベストセラーとなり、超人的な忍者像を浸透させた。
幸村と十勇士は、「名探偵コナン」や「仮面ライダー」のような、ヒーローになっていく。

元ネタは講談で三勇士だったのが、七勇士になり十勇士になったらしく、どうやらネタにつまって忍者やら影武者やらを作り出したらしい。猿飛佐助、霧隠才蔵穴山小助海野六郎筧十蔵根津甚八三好清海入道三好伊三入道望月六郎由利鎌之助の十勇士たちの雄姿。

ユーモラスな風体ながらドロンの実力者、甲賀流忍者の猿飛佐助、しなやかで、ハンサム、変幻自在な伊賀流忍者霧隠才蔵の二人がヒーロー役を痛快に演じた。無骨だが怪力無双な三好兄弟が三枚目を引き受け、影で主役たちを支えていた。だけど、真の主役は知略に優れた真田幸村で、その秘術を尽くした戦略と戦術を駆使した戦い振りには、いつも興奮させられたものだ。

「三途の川の渡船料」とも言われる「六文銭」の旗が居並び、決死の覚悟を示す真っ赤な具足の「赤備え」は徳川方を震え上がらせたという。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣当時、難攻不落とうたわれた大坂城は、外側を惣(そう)堀で囲まれていた。
その南東隅に出城として築かれたのが真田丸だった。この地に陣を構えた幸村は、おとりで敵をおびき寄せ、一斉に狙い撃ちする奇策をとる。「十勇士が穴を抜けて家康を奇襲した」「城内につながっていた」という伝承が残っている。
 
家康を一時は追いつめた戦いぶりは、敵方からも「日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由」「他国は知らず日本にてためし少なき勇士なり」「手がら古今に無之次第に候」と称された。「敵ながらあっぱれ」と言わせる幸村は、当時から間違いなく英雄だった。