有楽町

有楽町ガード下

数寄屋橋は「君の名は」で一世を風靡し、有楽町そごうは「有楽町であいましょう」って、フランク永井が歌い上げ、一躍デートスポットにのし上がった。
いまやどちらも時代の流れに掉させずに、消え去っていった。
都心にもかかわらず、有楽町周辺ははガード下に飲食街が軒を連ね、駅前もゴチャゴチャとして、戦後の青空マーケットの面影を残す不思議な一角だったが、駅前から有楽町マリオンにかけての一帯がようやく再開発されることになった。
なんと戦後50年も経ってである。

有楽町という地名が、乱世の雄、あの織田信長に関連しているというのも面白いね。
信長の弟だった織田有楽斎の屋敷がこの地にあったことに由来するからだ。
この有楽斎という人物は稀代の奸物として有名だが、よくいえば世渡り上手だったようだ。
本能寺の変では信長の長男信忠とともに京都にいたが、信忠に切腹を奨め、自分だけ逃げ失せた。
豊臣秀吉の代になると、秀吉に武将兼茶人として仕え、関が原の役には東軍徳川方に属し、その後淀君(信長の姪)の叔父として秀頼政権の補佐役という要職にあった。
それでいながら、密かに徳川方と内通し、大阪夏の陣直前に大阪城を退去するといった具合である。
さすがに家康も胡散臭さを感じたのか、大名には取り立てず、旗本として遇するに留まったが、その子孫は大政奉還までその命脈を保ったのである。

さて、本家筋である織田家は信長の弟、信雄(のぶかつ)の子孫が出羽天童藩一万石の小藩として生き延び、秀吉の系統では、寧々(北政所)の甥、木下延俊が豊後日出(ひづ)藩二万五千石の大名として存続した。いずれも僻地の寒村だったため、その藩政維持には苦労があったようだが、なんとか明治維新まで生き長らえた。