藩主

毛利元徳

日本で叙勲制度が始まったのは明治維新による新政府によるもので、岩倉具視を団長とする2年半に及ぶ遣欧使節がもたらした文明開化策の一つだった。幕府を大政奉還に追い込んだのは、薩長土肥の下級武士たちであったが、彼らの功績を称えたいという主要目的の他、版籍奉還廃藩置県によって領地を失った旧藩主たちを懐柔する苦肉の策でもあった。
公侯伯子男の5つの爵位を定め、功績によって叙勲したのである。

この公侯伯子男なる貴族制度の序列が当時の諸大名に対する維新政府の評価を知る上で面白い。幕府の親藩だった藩主は別としても、雄藩だった前田、細川、黒田、池田、伊達家に対する区別も興味あるし、薩長土肥といわれた四家でもはっきりと序列をつけられている。

公爵は20名いるが、その内訳は摂家が岩倉、一条、二条、三条、九条、近衛、西園寺、鷹司、徳大寺の9名、後に侯爵から陞爵したのがいわゆる明治の元勲といわれた伊藤博文大山巌桂太郎松方正義山縣有朋の5名だった。公爵に叙せられた藩主の内訳は島津忠義(旧鹿児島藩主)、島津久光(鹿児島別家)、徳川篤敬(水戸徳川家、侯爵から陞爵)、徳川家達(将軍家)、徳川慶喜(旧征夷大将軍、将軍別家) 、毛利元徳(旧山口藩主)の6名だった。

侯爵は41名だが、その内藩主は12名、以下の通り。広島浅野家、岡山池田家、鳥取池田家、福岡黒田家、秋田佐竹家、宇和島伊達家、和歌山徳川家、佐賀鍋島家、徳島蜂須賀家、金沢前田家、高知山内家、琉球尚泰家 。

東北雄藩連合で幕府に抗戦した外様大名、伊達家、上杉家、南部家、津軽家、は当初その対象にも入っていなかった。