◆あの頃

大隈庭園

森の歌の会」は1956年、大隈講堂で行われた早混第1回定期演奏会で「森の歌」をともに歌ったメンバーである。2年生部員と1年生部員を中心に発足した会だったが、いまでか当時の3年生部員も加わって、常時20人ぐらいが集まっている。なにせ50数年前のことだから、メンバーの一番若いモノでも70歳を超えている。どこにでもある老人会のようだが、かって志を同じくして、一つの目標に向かった連中だから、会った途端50年前の学生気分に戻れるのが嬉しいね。

さて、早稲田大学混声学部の秘密基地は我が家だった。クーデターを企む面々が日夜たむろする拠点だった。っていえば聞こえがいいが、集まってくるメンバーは革命の志士なんてとんでもない、帰りの電車賃しかない素寒貧どもだった。ただ酒、ただ飯を食らい、日夜マージャンをしたい連中ばかりだった。格好良くいえば、水滸伝梁山泊といった趣だったが、こんなことを繰り返している内に、たちまち資金が底を突き、みんなの食欲をまかなっていた蕎麦屋の出前を断られ、残金2万円ほどの調達にえらい苦労をした記憶がある。

大学4年になると、ほとんど混声には顔を出さなくなった。っていうのも、混声学部にめり込みすぎて、卒業すら危うい状態になっていたのである。とりわけ出席日数が単位取得の条件だった語学系がほぼ全滅状態。4年になって、毎年単位を落としていた、第2外国語であるフランス語1年、フランス語2年、仏経3年、仏経4年をすべて受ける羽目になった。どれか一つを落としても卒業できない。出席日数が足りない仏経は教授に頼み込んで、なんとか「可」を取らしてもらった。いまでも時々早稲田を卒業できなかった悪夢を時々見るほどだ。

そんなに苦労したのに、我が家の家計は赤字続き。4年生第1期の授業料12,000円が長らく払えず、遂に商学部掲示板に「学生番号145」がデカデカと載せられた。物好きな仲間がいて、これを写真に撮って、「これ!おまえだろう」ってあざ笑う始末。結局家を担保に信金から金を借りて支払ったが、このツケは卒業後まで続いた。この貴重な写真、いまでもアルバムの隅に眠っているはずだ。

そんな貧乏暮らしだったから、就職1年目の秋、結婚式が決まり、約束事で結婚式、式出物、新婚旅行の費用はコチトラ持ちということになった。未納学費の返済も済んでいない状況だから、まさにお先真っ暗。そこで閃いたのが、図々しくも厚かましい、入社したばかりの会社から借用する手段、重役である東京支店長に仲人を依頼し、なんとか必要資金15万円の調達に成功したのである。手取り13,000円の給料から、毎月5000円ずつの返済、どうなることかと不安だったが、にょうぼが高給取りだったから、うなぎ登りだったボーナスや昇級分をこれにあてたら、たった1年で返済が済んでしまった。いまから思えば、よき時代だったなあ。